Rudwick 2005 BLT 6.1

ナチュラルヒストリーの歴史研究会
Rudwick 2005 Bursting the Limits of Time

6 A new science of "geology"? 「地球学」という新しい科学?

6.1 Revolutions in nature and society (1789-91) 自然と科学の革命 (1789-91)

Meanings of revolution 革命の意味
 フランス革命前にも政治的・経済的擾乱は数年にわたって存在していた。フランスでは革命は比較的穏やかに移行した。
 科学界の中心であったフランスで生じていたことはのちに重大な関心となった。1789年の段階では学術機関の廃止などは想像されていなかった。
 「革命」は自然界の変化と同じ意味で用いられていた。そうした革命はどのようなものでいつどのように生じたのかが議論となっていた。
 こうした問いは地球物理で扱うものとされてきたが、この時期にそれまでの非歴史的な研究が、歴史家や収集家の方法を取り入れた地球史的な研究によって補われはじめた(ソシュールモンブラン登頂は1776年)。
 しかし主流はそれまでの自然史や自然哲学だった。この節では周辺的な地球史について扱う。

Blumenbach's "total revolution" ブルーメンバッハの「全体革命」
 そのうちの主要な研究は、「鉱物学」のものである。ビュルタンは化石標本を使って、ノアの洪水以前のいくつもの革命を主張し、地球の歴史を描いた。
 ブルーメンバッハも同じような考えを発展させた。1790年の「過去世界の自然史への貢献」で、「鉱物学」が地球や生命の〈歴史〉の証拠となることを主張した。
 ブルーメンバッハは、生物界が変化しないとするハットンを批判した。現存する生物に似ている化石も、異なる生物である。ここでのアダム以前は、人間以前の地球史である。
 しかしこの議論は実際の絶滅への疑いによって弱められた。ブリュギエールは1789年に、化石と同じ生物が見つかっていないだけだと主張した。
 ブルーメンバッハも〈いくつかの〉化石が現存することを認めていたが、〈すべての〉化石が生き残っているわけではないと考えていた。アンモナイトは200種以上の化石が見つかっているが、生きたものは見つかっていない。アダム以前の生命全体は絶滅し、その「全体革命」のあとで初めて現存の生命が生まれた、と考えた。
 ブルーメンバッハは"creation"「創造物」の語を用いているが、「二次原因」として作用する〈なんらかの〉自然過程、「再創造」を想定していた。化石と巻きの方向だけが異なる生物が存在し、これは徐々に起こったものではない。
 しかしブルーメンバッハは、大きな革命によって区別される新旧の世界という二元モデルを生物界に適用していた。動物相の変化の実像を確立するためにはブルーメンバッハの推測以上のものが必要であったが、かれの仕事は地球史の証拠として化石を新たに強調するという重要な例である。

Montlosier's continuous revolution モンロジェの連続革命
 こうした博物館での研究は現地調査によって補完された。ニコラ・デマレはすでに、地球全体でなくオーヴェルニュについてであるが連続的に地球史の出来事を記述しており、フランス内外に知られていた。これが1789年にモンロジェの小著によって拡張された。モンロジェはデマレについては言及せず、オーヴェルニュに住み現地調査を行なった立場から書いた。
 「オーヴェルニュの火山の理論についての試論」という題名からもわかるように、「理論」に注目しつつも、伝統的な地球理論と異なり、オーヴェルニュという地方の、火山という現象に対象をしぼり、将来改良されるであろう「試論」であった。
     ビュフォン『自然の諸時期』以来、地球の歴史はおもしろくなりはじめた。…geologyは主要な科学となり鉱物学や試金、化学はそれに付随するものとなった。
 モンロジェの本は、噴火の「物理」と、火山丘と溶岩流への噴火の影響を扱った。さまざまな溶岩流は「自然の証言」
である。古代の玄武岩は秘教であり、現代の火山から学べる公教を習得したのちに理解できるものである。しかしここでの現代は相対的である。
 最近だが歴史以前の噴火も、それぞれ時代が異なる。
 モンロジェは火山岩の種類自体にも注目した。断続的な噴火は緩やかな浸食の長い過程における段階の「証言」や「刻印」を残している。ほかの自然史家と同じようにモンロジェは漠然とした印象を提供したにすぎないが、「無限の時代」という表現を使うことによって永遠性への疑義を開いた。
 スラヴィはデマレの仕事を、革命の始まる数年ほど前に別の方向に拡張していた。ヴィヴァレの地形について、岩石層の3次元分析(geognosy)を組み入れたのである。しかしその後誹謗中傷や説得の難しさによって、人類の歴史の記録者となった。
 しかしスラヴィの主張は消えたわけではなく、その以前のアルドゥイノの報告を強化し、フェルベールを説得するのに役だったはずだ。1789年までにヨーロッパの自然史家に広まっていた。
 一方、ラヴォアジェがパリ周辺について行った分析(革命の始まった数か月後に発表)は地球史ではなく地球物理のものだった。

Geotheory as a flourishing genre 栄える分野としての地球理論
 地球理論の分野は広がりつづけた。たとえばミラノのピニは1790年に「地球の新理論」などを発表した。ピニはモンロジェの著作も参照していたが、1度の氾濫に注目していた。
 ハットンの1788年の論文も同じ分野のものとして扱われた。このように地球理論は栄えていたが、のちにデマレも述べるように体系が複数存在することは分野自体が疑われることにつながっていく。

Conclusion 結論

 フランスにおける革命初期の地球の科学をまとめた。地球史研究は少数派だったが、4つの伝統は栄えつづけていた。これまで述べてきた研究は、ヨーロッパ全域に広がっており、フランス革命後も国際的でありつづけていた。さらに自然史の最良の証拠としての化石の強調もつづいた。しかしこうした慣習的示唆は具体的な成果を生み出してはいなかった。化石は地球史を再構築できると考えられていた。地球理論におけるド・リュックの新たな試みは、節を分けて書くに価する重要なものである。