廣重徹 (2003, 1973) メモ

廣重徹(2003, 1973)『科学の社会史(下) 経済成長と科学』.

第11章 経済成長と科学


1 再建と科学技術

 日本は冷戦と朝鮮・ベトナム両戦争に乗ずることによって経済発展のいとぐちをつかみ、その経済発展がそのたびに科学技術政策の積極化を促してきた。148
 1945-1952前後 敗戦から講和条約発効、経済の回復・再建
 1952-1959 朝鮮特需から設備投資による成長、原子力委員会科学技術庁
 1959-(1970) 高度成長政策、科学技術会議・科学技術振興十年計画

 1946.05 『自然』「日本再建と科学」 仁科芳雄八木秀次
 1946.03 「日本経済再建の基本問題」(外務省委託)
 1946.12 傾斜生産方式、1947.06 経済緊急対策
 1948.01 「日本を極東の軍事工場に」、1948.03 賠償緩和と対日援助政策
 1948.05 経済復興計画委員会、1949.03 ドッジ・ライン ドッジ不況


2 自立から成長へ

 1950.06.25 朝鮮戦争
 1950.08 経済安定本部に自立経済審議会、1951.01 「自立経済計画」(3年) ←技術政策への言及なし
 1951.09 講和条約日米安保条約、1952.04 発効 財界からの発言強まる
 1953.05 経団連・日経連・関経連「基本経済政策にかんする意見」
  「産業技術の絶えざる向上を期するため、科学技術振興政策を確立」することを要求
 1953.09 経済審議会による経済自立の三目標・四原則でも技術革新による経済成長
  原則に「科学技術の振興」。国際競争力の強化、国内資源の合理的開発、新産業の育成、雇用機会の造出
 1953.08 衆議院本会議で科学技術行政機構強化の決議、1954.02 科学技術庁設置法案(社会党
 1954.10 経済同友会「科学技術促進対策」、科学技術公社の設立を要求。
 1955.12 「経済自立五ヵ年計画」閣議決定。重化学工業品中心の輸出、原子力石油化学
 1955.12 衆議院に科学技術振興対策特別委員会
 1956.01 原子力委員会、1956.05 科学技術庁、 国際地球観測年に9.8億円
 1957.12 「新長期経済計画」閣議決定。技術の進歩、世界的技術革新。
 1957.11 科学技術関係閣僚懇談会。理工系大学の大拡張、科学技術行政機構の強化。
 1959.02 科学技術会議
 1960.12 所得倍増計画
 1960.10 科学技術会議「十年後を目標とする科学技術振興の総合的基本方策について」
 「ここで初めて、経済政策に即応する科学技術政策が個別的詳細にわたって論ぜられるにいたった」157


3 所得倍増と科学技術

 科学技術会議の答申、人材の養成/研究活動の拡充整備/情報流通・国際交流および普及/制度の改善
 科学技術基本法を制定し、総合行政体制を強化せよ


4 科学技術一〇年計画の実行

 『戦後日本の科学運動』「日本の資本主義はいま、みずから科学技術の強力な発展をはかろうとしており、今日の主要問題はもはや科学技術の植民地化ではない」
 科学技術振興ブーム、企業の中央研究所、・・・。
 1963.09 研究学園都市の建設、閣議決定
 1961.07 新技術開発事業団、1963.08 日本原子力船開発事業団、1967.10 動力炉核燃料開発事業団、1969.10 宇宙開発事業団
 科技庁直属研究所も、航空技術研、金属材料研に加えて、10年で放射線医学総合研、防災科学技術センター、無機材質研、資源調査所が設立された。なかでも原子力と宇宙開発。そして、海洋開発。
 大学の科学研究にも産業や政治からの要求がしばしば反映する。


5 基礎科学の受けた利益

 基礎科学もまた体制の網の目に組み込まれることによって、そこから十分に利益を得てきた。日本の資本主義。


6 対外膨張と科学・技術

 1964〜65、戦後最大の不況。その後、ベトナム戦争国債発行で、対外膨張に。自主技術の推進。
 1965.01 閣議決定「中期経済計画」。日本独自の研究開発に力を入れるべき。技術振興の長期総合計画。
 1966.08 科学技術会議「科学技術振興の総合的基本方策に関する意見」
 1966.05 経団連、技術開発の緊急性を総会決議。1967.05 資本自由化対策の第一に自主技術の強化。
 1967年ころにはその後の変動を予兆するできごと。公害、米軍資金、学生反乱。



第12章 期待から幻滅へ

1 成長の六〇年代

 1961.09 OECD、科学技術行政の強化・促進。

2 研究投資の引き締め

3 体制批判の台頭
 軍事と環境破壊への加担にたいする批判、体制化された科学の構造そのものにたいする批判

4 科学への問い
 環境問題がこのような高まりを示したのは、それがたんに一地域、一都市の問題であることをこえて、全地球的な規模での汚染であり、環境の破壊であることがようやく明白となってきたからにほかならない。201
 科学・技術にたいする従来の考え方が変更をせまられている要因として、さらに第三世界の問題と中国の文化大革命をあげねばならないであろう。

5 七〇年代の科学政策


終章 これからの科学

 「科学のオートノミーは打破されなければならない。科学は、いわば全人民的なコントロールのもとにおかれなければならないだろう。科学のオートノミーという主張は、科学の進め方をもっともよく心得る者は科学の専門家であり、したがって、彼らにまかせておくのが科学を進めるもっともよい方法だという了解のうえに立っている。しかし、科学はそれ自体として善であり、科学はとにかく科学としてまず発展させるべきだという価値観は、いまや転換されねばならないのである。」227